(個人的な日記です。適当にスルーして下さい。)
実家を出るときは、いつも最寄り駅まで母が車で送ってくれる。
一言「ほんな、元気でね」とだけいい、送り出してくれる。
色んな感情がその一言に宿っているのはよくわかる。
この間(ま)が気恥ずかしい僕は、いつもぶっきらぼうに「いってくら」とだけ返事し、すぐに背を向け駅に入ってしまう。
ゆるりとした在来線から乗り継ぎ、都会の雑踏の中に入っていく。
少し早めに夏休みをとった帰省客で構内は賑わっている。
生まれが田舎の人間にとって新幹線というのは特別なモノなのである。
今と昔をつなぎ、ときに未来に向かう乗り物だ。
新幹線に乗るときは、つねに変化を伴っていた。
受験、上京、就職、海外移住。いつも新しい世界に連れて行ってくれた。
新天地に向かう興奮と不安、そして少しの寂しさが交錯していた。
心地よい揺れと街を切って進む爽快感をよそに、いつも心はざわついたままだった。
新幹線の中でしか、思い出さない入り混じった感情。
いつもは、いたずらに時間がすぎるのを待つだけなのだけれど、今日はこのもやもやを書きつけてみよう。
ブログを書くにはもってこいの時間だ。
20年ぶりに実家で暮らした。
半年間だったが、親と同居したのは成人してからは始めてである。
僕は小さい頃から地元が嫌いだった。
ガラの悪い大人、いじめ、暴力、不衛生な町並み、子供を追い回す野良犬、気味の悪い道端の地蔵。全てが嫌だった。
とにかく、そんな街からできるだけ遠くにいきたい思いでいっぱいだった。
地元を離れたあとも、どんよりとした記憶だけがいつも心にあった。
毎年帰省しても、すぐに住み慣れた場所に戻りたくなっていた。
でも今回は少し違った。
毎夕、自転車で田舎道を走ったときに感じた風は、なぜか爽快だった。
人は歳をとると丸くなるからなのか、地元に対する嫌悪感も薄らいだようだ。しばらく腰を据えて過ごしていると、自然と全てを受け入れることができた。長い反抗期がやっと終わったようだ。
実家ぐらしは、思いのほか楽しかった。
家族の変わらないクセ、しゃべり方、夕飯のときの座り位置、風呂の順番。子供のころ過ごした家庭の風景と何も変わらないままそこにあった。
常に別世界を求めて変わり続けてきた自分に、「変わらない」安らぎを与えてくれた。
変わったものもあった。
相変わらずのんきな姉も白髪が目立つようになった。
母親は少し耳が遠くなったのか、こちらが気をつけて大きな声で話さないと聞きづらそうだった。そして、毎夜付けっぱなしのテレビの前で泥のように眠っていた。
仕事場の父親も、ときに手を止め、やすみやすみ息切れしながら手を動かす姿は、老人のものだった。昔の力強い背中はすっかり影を潜めていた。
一緒に暮らしたからこそ見えた姿だった。
皆、確実に老いていた。
「ほんな、元気でね」
今朝も母親はそういって送り出してくれた。
何度も何度も繰り返してきた、いつもと同じ光景。
僕はやっぱり、そそくさと駅に入ってしまった。
おそらく、今回が最後だっただろう。
きっともう、家族と一緒に暮らす機会はないだろう。
でもよかった。少しの間だったけれど、一緒に暮らせてよかった。
僕はまた変化に向かう。
暑い夏の田んぼの風景を車窓に映しながら新幹線は進んでいく。
いつものように入り交じる複雑な感情も、今回ばかりは寂しさの量が少し多いようだ。